戦後カミソリ史記 第一話 日本におけるシェービング市場の変遷

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カミソリ倶楽部 代表 竹内 康起 寄稿

わが国のカミソリ市場は戦後15年を経て1960年の貿易自由化が開始されるまで、主に国産品の安全カミソリだけが流通し国産品全盛時代が存在していた。中でもフェザー(昭和28年社名変更)は他の国産メーカーを大きく引き離し80パーセントのシェアーを占め国内最大の規模を誇っていた。第二次大戦後、日本経済も目覚しい復興と発展を成し遂げるなかで海外メーカーの圧力も加わり、1960年に入りついに輸入自由化が決行され日本市場を舞台に世界のカミソリメーカーが揃い本格的カミソリ戦争時代の幕開けとなった。当初の自由化品目として先ずカミソリホルダー(柄の部分)が1960年4月に開放され、続いて二年後の1962年11月には替刃を含め完全自由化されることになった。

その後、各メーカーともに戦略的成功と失敗を繰り返し重ねて来たが、ブランドとしては米国のシックが現在もなお、トップブランドとして君臨している。自由化以後のその40年間1960年―2000年のカミソリビジネスの熾烈な激戦の渦中に父とともにわが身を置き小生が体験して得た写真や新聞記事など莫大なものになっている。その貴重な資料を下に日本のカミソリ市場の変遷について、とりあえず、メーカー別市場占有率の動向と変化などを参考までに大筋紹介したいと思う。特に、シックカミソリの成功秘話としてその第一歩、即ち井戸を掘った人物として実父、竹内金蔵の並々ならぬ努力と忍耐があったことを伝えたい。その姿を側で見てきた実息子、小生にとってもそれが誇りであり同時に自負するところである。そんな渦中で、シックを始め有力カミソリメーカー各社とも多額な取引があったのでいろいろ学んで得た知識も多かった。

わが国の貿易自由化(1960)以前、当時、ジレット社での勤務時代に初めて来日したピーターオリバー氏 中央、& 左端 父、竹内 金蔵 1957年4月

以下、各カミソリメーカの市場占有率の変化と推移を年代別に表示すると、

年次 1965(推定) 1970 1971 1975 1976 1980 2000
シック 4.7% 25% 37.6% 59.1% 63.6% 69.8% 60%
ジレット 9.4% 8.1% 17.4% 13.1% 12.9% 10.2% 20%
フェザー 72.7% 42.7% 19.0% 12.7% 11.1% 9.4% 6%
ウィルキンソン 2.2% 11.9% 12.3% 7.8% 6.4% 4.5% 0%
その他 11.4% 12.3% 13.7% 7.1% 6.0% 6.3% 14%

シックカミソリの日本での成功はカミソリメーカーに勤務していた英国人、ピーターオリバー氏と父、竹内 金蔵との出会いから始まった。ピーター オリバー氏はかってジレット社に勤務していた頃から父とは知己で1957(昭和32)年に初来日した際には、約半年ほど前に、カミソリの自由化が間近であることを教えてくれた人だった。その後、1967年頃に同じ米国のエバーシャープシック社に移籍し、ベルギーのブリュッセル本部で極東支配人として活躍した。特に茶道、華道、禅、など日本文化にも造詣の念が深かく来日する度に実務家であった父との親交をも深めていた。彼の口癖は“日本市場は日本人に任せることであり、商品力と販促予算は自分の責任である“と言っていた。

其の後、ジレット社を退社して、今度はシック極東支配人時代になってから再び来日したピーターオリバー氏 手前右、竹内金蔵 左端、 竹内 康起 著者 中央、 1968年2月

いずれにせよ、シックカミソリの日本市場での成功はその後も多くの関係者に強い関心をもたれ、そのたびに小生も出来るだけ第三者的立場で、その経緯を説明して来た。そしてワシントンポストや日本経済新聞など内外のマスコミ取材にも多く応じてきた。米国本土で約65%の市場占有率を誇るジレットが日本で18%そこそこで低迷し、その分シックが65%以上を勝ち得たことは世界の常識からしても稀なケースにもなった。確かに、それだけの例外的な実例を築いた日本市場での成功実績は貴重な物語でもあり、マーケティングを志す人たちにとってこれは大変興味のある学習材料にもなっていた。後になって父、金蔵は、シックの成功は生き抜く生活のためであり、やり抜く執念だったとさりげなく述懐していた。理論的には証明できなくても結果的にそうなったことに、父なりに満足していたようだった。

世の中には、職人さんのように手に職があっても他人にそのことを上手く説明できない人が沢山居る筈だ。たとえ学歴があっても、また理論武装しても駄目なものは駄目なのだ。包丁一本仕上げるのにも人並みの熟練工になるのには20-30年位かかると訊いた事がある。昔はカミソリも同じだった。そして今から約100年前になるがアメリカのキングC ジレットが1904年苦心の末、替刃式安全カミソリの原型を発案しその後、量産体制への自動化を成功させた。その後、1960年代にステンレス製カミソリ刃が英国のウィルキンソン社から発売され大きな話題を呼んだ。現在では欧米はじめ先進国に於いては既にステンレス刃が主流に成って来ている。そして、1962年頃からは今までの両刃式から片刃タイプのシックインジェクターへの時代に突入する。以来1970年代頃からシックカミソリの全盛時代となり、他社を大きく引き離し現在なをトップブランドとして君臨している。

思い起こせば一枚刃から始まったカミソリの刃も、二枚刃、三枚刃、四枚刃、そして今年2006年の春先には最大手ジレット社からハイテク先端商品としてついに5枚刃が米国市場で発売された。1970年に開発された二枚刃からなんと35年の短期間内に目覚しい技術進歩が成されカミソリ本体も大きく変化した。そして、その二枚刃時代の到来とともに1989年のジレット社の新製品センサー、それ以後はメーカー毎に独自の商品開発が進み、長い間共通していた替刃への互換性はほとんど無くなり消費者に混乱を与えるようになるなど、ウエットカミソリ市場全体にとってむしろマイナスをもたらして来たのではないかと危惧している。そして、今後もこのままの状態が続けばメーカー間での格差はますます広がり米国資本による寡占的な市場になっていくにちがいない。

その頃(1960年代)、ピーターオリバー氏から父、金蔵に贈られたシックインジェクターカミソリのわが国最初のポスター(親子の微笑ましいひげそり写真)

何はともあれ、男性にとって欠かすことのできないひげそり行為は特権でもあるが、同時に面倒なことでもある。電気カミソリで用を足すのも悪くはないが、本格的なシェービングとなればやはり水洗いによるウエット方式に限る。電気カミソリは顔面にある髭を除去するには外刃で保護し回転している内刃で刈ることになるので安全性は高いが深剃や爽快感になるといささか満足度に欠ける。その点ウエットシェービングは顔面に刃先が直接あたるので剃り残すことがなく深剃りも可能になる。それに、ひげそり後のローションでの爽快感はまさに男の儀式として最高の気分をもたらしてくれる。電気も水洗い方式もそれぞれ一長一短があるので、なんとも言えないが、それでも両方を上手く使い分けしながら兼用している人もかなり多い。市場金額の比較では相互に50:50とも云われている。

最近は女性用の洒落たカミソリも多く店頭で見かける。安全性もありデザインも男性用にはないカラフルで素晴らしいものが多い。単身女性にはもってこいのカミソリだ。でもよーくみるとやはり男性用の替刃を使用しているものが多い。本質的には変える必要がないからだ。ファッション社会の中で肌の露出度が高まるとともに無駄毛や脛毛などの処理に気を使う女性がどんどん増えている。おへそを平気でさらけ出す若い女性たちをみると時代の変化と併せ売筋商品にも変化が起きて来る。1970年にアメリカで発売された女性専用の安全ガ-ド付カミソリ、フリッカーは二年後に日本でも紹介された。このタイプのカミソリこそが現在、主流となっているガード付安全性カミソリの原点になっている、がそのフリッカーは当初、三井物産が輸入した米国製ASR社の商品だった。このメーカーは1873年に設立されたアメリカ三大カミソリメーカーで最も古いメーカーであり1960年代中頃にはライオンのウィルキンソンに対抗し、花王がカオーペルソナとして両刃用カミソソリを販売したこともあるが、結果は失敗に終わった。

大学在学中に父に随行し、エバーシャープシック社を初めて訪問する。中央が当時のシックカミソリ事業本部担当副社長、ロバート アルフレッドソン氏、左右は 竹内 金蔵、& 康起 1964年1月、米国 コネチカット州 ミルフォードで

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カミソリ屋4代目。
幼少時代、家族旅行が刃物工場巡りで職人さんのモノ造りの素晴らしさに感銘。カミソリメーカー、ハサミメーカー、包丁、爪のニッパー屋さんと見学させて頂きました。特に印象だったのが刀鍛冶!フイゴで鉄を熱しながら叩く姿は「美」。カミソリの替刃の原料である工場見学で大きな鋼がロール状になるのにも驚きました。
髭とカミソリに関する知識ならお任せください、他、僕の趣味もアップします。

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